研究内容
制御理論・制御工学とは 笹原の専門は制御理論および制御工学です。 制御理論とは『システム』を安定して正しく動かすための数理的方法論およびその理論体系を指し、一方で制御工学は制御理論を基盤にした応用技術の体系です。それにしても「安定して正しく動かす」といったやや漠然とした物言いが最初に来る領域が一つの学問分野として成立しているのはなぜでしょうか。それは、この世には『フィードバック』という普遍的なメカニズムが存在し、それはあらゆるシステムに不可欠な本質的概念であり、そして制御理論はまさにその原理を体系的に探究する学問であるためです。フィードバックという言葉自体はビジネスシーンにおける評価の伝達および改善のためのコミュニケーションといった意味合いでよく使われますが、原義的にはシステムの出力を観測しその結果に応じて入力を調整する仕組みのことです。現実のシステム(たとえば自動運転車、製造工場、電力ネットワークなど)は常に外乱や環境の変化にさらされており、これらのシステムが安定して動作し続けるためには、状況に応じてその挙動を適切に調整する必要があります。このような不確実な要素に適応的に対応するための最も有効な(ほぼ唯一の)手段がフィードバック機構です。フィードバックは対象システムに依存しない普遍的なメカニズムであり、その性質は定量的分析の共通基盤である数学によって明らかにすることができます。この数理的探究の体系こそが制御理論・制御工学であり、そこに「最も美しい工学」と称される所以があります。

制御システム 制御理論は、社会や産業のあらゆる分野で基盤的な役割を果たしています。ここではその代表例として、三つのシステムを取り上げます。 1.自動運転 自動運転は、現代の制御理論を体現するシステムの代表例です。その中核にはフィードバック機構があり、車両はカメラ、LiDAR、GPS、IMUなど多様なセンサから得られる情報をもとに、外界と自身の状態を継続的に観測・推定します。近年では、これらの観測データを処理する知覚層に機械学習技術が取り入れられ、物体認識や経路予測が高精度化しています。一方、制御層では、知覚層から得られる環境情報と目標軌道をもとに、操舵角や加減速をリアルタイムに最適化するフィードバック制御が中核を担います。学習による知覚と制御理論による安定化が緊密に連携することで、外乱や不確実性の中でも安全かつ滑らかな走行が実現されます。こうした階層的なフィードバック構造は、次世代知的システムとしての自動運転を支える基盤であり、制御理論の進化と融合の最前線に位置しています。 2.製造工場 製造工場は、制御理論が最も早くから実用化された対象の一つです。温度、圧力、流量、位置といった物理量を一定範囲に保つため、各工程ではセンサによる計測値をもとにアクチュエータの出力を調整するフィードバック機構が組み込まれています。この閉ループ構造により、外乱や装置の経時変化があっても生産ライン全体の安定性と品質が維持されます。こうした制御は、PID制御やシーケンス制御といった古典的手法を基礎とし、現在ではPLC(Programmable Logic Controller)として標準化・パッケージ化されています。PLCは産業機器間の通信や安全機構とも統合され、工場自動化を支える中枢的な制御基盤となっています。製造現場における制御理論の応用は、単なる工学技術にとどまらず、長年にわたり産業の信頼性・効率性・安全性を支えてきた、まさに工学の根幹をなすフィードバックの実践例といえます。 3.電力ネットワーク 電力ネットワークは、制御理論が最も広範かつ体系的に応用されている大規模システムの一つです。発電機、送電線、変電設備、需要側負荷が広域に分散しながら相互に結合しており、その運用には膨大な制御ループが関与しています。各発電機では回転数や出力電圧を一定に保つためのフィードバック制御が行われ、これが系統全体の周波数や電圧の安定性を支えています。また、潮流制御や系統保護といった上位層の制御も、膨大な計測データとモデル予測を組み合わせた多層的フィードバック構造に基づいています。近年では再生可能エネルギーの大量導入や需要の変動化により、電力ネットワークはより動的で不確実な系となっていますが、制御理論に基づく分散協調制御や最適化技術がその安定運用を支えています。こうした仕組みは、社会インフラにおけるフィードバックの成熟した姿を示すものです。
自動運転、製造工場、電力ネットワークなど、多様なシステムの根底にはフィードバックに基づく制御の原理が息づいています。制御は、物理世界の安定と効率を支える普遍的な基盤技術であり、産業や社会インフラを横断して機能する知の体系です。近年のAIや機械学習の発展により、制御機構はより学習的で予測的な性質を備え、複雑で不確実な環境にも自律的に対応できる段階へと進んでいます。制御理論は知能と物理をつなぐ新しいインターフェースとして、次世代社会の根幹を形づくる方向へいまも進化しています。
研究の方向性 制御理論は、前述のように工学としての横断的実用性を持つと同時に、整然とした理論体系としての側面も備えています。笹原はこの両面性を踏まえ、現代の重要な研究課題として、理論的基盤に『データ駆動型学習制御』を、工学的展開に『制御システムセキュリティ』および『制御理論によるセキュリティ』をそれぞれ研究の柱としています。これらは単なる独立した領域ではなく、応用的視点が理論に新たな展開をもたらし、理論的洞察が応用に新しい方向性を拓く、相互に作用し合う双方向的かつ発展的な関係にあります。 【データ駆動型学習制御】 近年の人工知能や機械学習の進展により、高精度センサから得られる膨大なデータを活用して、制御対象の挙動を学習的に最適化する手法が『データ駆動型学習制御』として注目されています。環境の変化や外乱に応じて制御方策を更新することで、従来より柔軟で適応的な制御が可能になります。AI技術の発展により、リアルタイムでのデータ解析と意思決定が実現され、制御理論は高度化・知能化した現代的なシステム設計の基盤として進化を続けています。機械学習の根本的課題の一つとして、深層モデルなどのアーキテクチャの複雑性により、システムの安定性や性能を保証することが極めて難しい点が挙げられます。 笹原の研究では、深い理論基盤を持つ制御理論の知見を活用し、観測データに事前には予測できないノイズや外乱が含まれる場合でも、各種性能を保証できる制御・学習手法の開発に取り組んでいます。このような制御系設計問題は素朴には無限個の制約を持つ最適化問題として定式化され、通常のソルバーでは解くことができません。我々が提案した手法では、行列の二次不等式制約間の包含関係を利用した無限個の制約の単一の制約への等価変換を導出し、実用的な計算手法を提供しています。また最近は学習過程の安定性保証など、さらなる信頼性を達成するための理論的拡張にも展開しています。 発表論文 T. Kaminaga and H. Sasahara, "Data informativity under data perturbation," arXiv, 2025. T. Kaminaga and H. Sasahara, "Data informativity for quadratic stabilization under data perturbation," American Control Conference, 2025. 【制御システムセキュリティ:Security for Control】 前述のように制御機構はありとあらゆるシステムの運用を支える基盤的技術であり、そのセキュリティ確保はきわめて重要な課題です。これは国策として捉えるべき重大な懸案事項であり、実際、2025年に他国製の太陽光発電制御システムに不審な通信機能が発見されるなど、安全保障上無視できないリスクが顕在化しています。研究レベルでは多くの攻撃が実証されており、例えば自動運転車では知覚層におけるGPS信号のなりすましや標識データの改変によりAIが誤判断し、深刻な事故につながる可能性が示されています。また、製造工場における近年のPLCは標準化されネットワーク接続されているため、サイバー攻撃による影響は甚大かつ広範囲なものになり得ます。このように、制御システムセキュリティは単なる技術的課題にとどまらず、社会インフラの安全性や公共の安全に直結する喫緊の問題であることは明らかです。 笹原の研究では、制御層における敵対的データ摂動攻撃という新たな脅威を世界に先駆けて検討し、その深刻な影響を明らかにしました。知覚層のAIモデルに対する敵対的攻撃は広く知られていますが、制御層はより単純でパラメータ数の少ないフィードバック制御器によって運用されるため、従来はセキュリティ上の問題は存在しないと考えられてきました。ところが制御理論の知見を用いた注意深い攻撃設計のもとで、データをごく僅かに歪ませることでシステム挙動を不安定化できてしまうことが笹原の研究により明らかになりました。この脆弱性は個別のシステムに依存せず、モーターの位置決め制御、サスペンション制御、ロケットの姿勢制御、航空機のピッチ角制御、液体タンクの流量制御など、制御システム全体の基盤要素に横断的に存在することが確認されています。加えて最先端の自動運転制御であるアダプティブクルーズコントロールでも同様の脆弱性が確認され、システムの新旧を問わず普遍的な脅威となり得ることが示されました。本研究では、この脆弱性の解析と並行して、データ駆動型学習制御の枠組みを活用した防御技術開発も同時に進めています。 発表論文 H. Sasahara, "Adversarial destabilization attacks to direct data-driven control," arXiv, 2025. T. Kaminaga and H. Sasahara, "Adversarial attack using projected gradient method to data-driven control," IEEE Conference on Control Technology and Applications, 2024. H. Sasahara, "Adversarial attacks to direct data-driven control for destabilization," IEEE Conference on Decision and Control, 2023.
【制御理論によるセキュリティ:Control for Security】 制御システムのセキュリティに加え、制御理論を活用したサイバー防衛技術の自動化に関する研究も進めています。従来のネットワークセキュリティでは自動化が達成されているのは侵入検知など一部に留まり、多くの工程(侵入ホスト修復・根本原因分析・エンドポイントポリシー更新等)が人力によるマニュアル対応に依存していることが対応の正確性やコスト面におけるボトルネックとなっています。こうした課題を解決するために、人間の認証無しに高度な意思決定が可能な自律型サイバー防衛システム(ACD: Autonomous Cyber Defense)がサイバーセキュリティ分野で注目を集めています。 笹原の研究では、ACDの設計に制御理論を活用する方向で研究に取り組んでいます。ACDは強化学習を用いて構築されることが想定されていますが、強化学習とデータ駆動型学習制御は密接に関係しています。例えば、制御理論で深く調べられている可制御性という概念をACDに応用することで、その性能解析が可能になります。また、制御理論における標準的なアプローチであるBayes推論を用いた防御機構の性能を分析することも可能です。加えて、制御理論を用いた効率的な強化学習アルゴリズムの開発も並行して進めています。 発表論文 L. Burbano, H. Sasahara, and A. Cardenas, "Steerability of autonomous cyber-defense agents by meta-attackers," IEEE Conference on Artificial Intelligence, 2025. H. Sasahara and H. Sandberg, "Asymptotic security using Bayesian defense mechanism with application to cyber deception," IEEE Transactions on Automatic Control, 2024.